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翌日、凱歌の提案通り銀行の貸し金庫を開けてみた。中を確認したところ、そこに入っていたのは書類の山でもカセットテープでも、ましてや手紙でもなかった。ただぽつんと、ケースに入ったCD-ROMが一枚。青い記録面を見ると、ぎりぎりまでデータが詰まっていた。
すぐに家へと戻り、パソコンでCD-ROMの中身を開いてみた。4年前のマシンではあったが、無事に中身を見ることはできた。そこにあったのは、「1211」という名前のフォルダと、「dear.wav」という名前の音データ。「1211」フォルダは、文字通り1211との闇取引に関する証拠のデジタル文書が詰まっているのだろう。問題は「dear.wav」ファイルの方だった。
あまりに直球なファイル名に、目に入った途端ドクンと心臓が高鳴る。一体誰に向けての「dear」なのか――そんなことは鍵の送り先から明らかだった。頭ではわかっているが、認めたくない。あの親父が、自分たちを捨てた父親が、今さら何だって言うんだ……。
脇からパソコンのディスプレイを見つめているはずの真弓に目をやる。真弓は「どうしてすぐに開かないの？」という目で謙一を見ていた。父親に追い出された当時、真弓はまだ幼かったから、父親の記憶をほとんど持っていないのだろう。そのせいか、謙一よりは父親に対するわだかまりが少ない。謙一にとっては、それがうらやましくもあった。
意を決して、そのファイルをダブルクリックしてみた。OS標準のプレイヤーが起ち上がり、ファイルの中身を読み上げ始める。
『――謙一、真弓、元気か？ ……とは、軽々しく言える立場ではないか』
スピーカーから流れてきた声は、紛れもなく父親の声だった。8年経った今でも微かに覚えている声と、ほぼ完全に一致した。そうして初めて今でも父親の声を覚えている自分に気付き、謙一は内心激しく動揺した。
あんなに憎んでいた相手の声を、今でも覚えてるなんて……。親父のことは思い出したくもなかったし、忘れようとしていたくらいなのに。
プレイヤーから流れる声は、たどたどしく、何を話していいのかわからないといった雰囲気で言葉が紡がれていた。他愛のない近況報告――と言っても去年の話題だが――の中に、「あー」という意味のない声や無音状態がやけに多い。言いたいことは沢山あるのに言葉にならない、何を言っても気持ちが空回りしそうで怖い――そんな雰囲気が声から伝わってくる。
『……お前たちを捨てるような真似をしてしまったことは、本当にすまないと思っている』
このまま近況報告ばかりが続くのかと思っていたら、話はいきなり核心に迫った。その直前の無音状態の長さから察するに、話題や言葉を選ぶことをこの時点で放棄したようだ。突然、流暢に喋り始める。
『1211……香港の闇組織と取引をしなければならない状況になって、真っ先にお前たちを守る方法を考えた。どうすれば、お前たちを奴らの脅威から守れるか。そう考えた時、一番いい方法は自分から引き離すことだと思った。これまでの取引相手とは違って、奴らの嗅覚はハイエナ以上だと聞く。目的のためなら手段を選ばない、どこまでもしつこく追いかける。だったら追いかけるための手がかりを掴ませないように、私との関係を一切断ち切ってしまえばいいじゃないか。そう、思ったんだ……』
何を今更、言い訳じみたことをぬかしやがるんだ――心の中で毒づきながらも、どこかで父親を否定しきれない自分もいる。こんなヤツの御託なんか聞きたくないとは思いつつも、耳はスピーカーから流れる声に集中している。父親のことを憎んでいるのか、許しているのか、一体自分の本心はどっちなんだ……謙一は戸惑った。
『……いきなり私からの手紙が届いて、驚いているかもしれないな。この声が入ってるCDに、1211との闇取引の証拠文書を入れておく。私とお前たちを結ぶ線は全て消したつもりでいるが、万一ということもある。この鍵やCDが、使い方次第で、私の代わりにお前たちを守ってくれるだろう……』
裏社会で生きてきた父親らしい発想だ。裏取引があったこと自体を隠したがる1211にとって、取引の証拠は何よりも闇に葬り去りたい代物だろう。確かに、使い方次第で自分の身を守ることができたかもしれない。
だが使い方に精通していない自分たちには、無用の長物――むしろ迷惑な物でしかなかった。このCDの存在のせいで、真弓が1211にさらわれることになった。それが、父の最大の誤算だろう。
『……今日、1211のスナイパーが日本に来たらしい。1211との闇取引について検察の取調べを受けている私は、近いうちにきっと……殺されるだろう』
背後から、ほんのわずかな空気の流れを感じた。これまでじっとスピーカーの声に耳を傾けていた凱歌が、今の言葉に反応したのだろう。父が予言した通りのことを、彼は実行しているのだ。そのことで良心の呵責を感じているのならば、動揺しないわけがない。
『父親らしいことは、何一つしてやれなかった。むしろ迷惑ばかりかけてしまって、きっと私のことを憎んでいるだろう。――憎んでくれて構わない。私は、その程度の人間だったのだから……』
スピーカーから流れる声の語尾が、かすれて消えた。そのまま、無音状態が少し長く続く。
1分ぐらい、間があっただろうか。ようやく再び声が流れてきた。
『……謙一、真弓、こんな父親で本当にすまなかった。この声がお前たちに届く頃には、きっと私はこの世にいないだろう。だけど、お前たちは少しでも長く、生きてくれ。それが、父親としてしてやれる、最後の祈りだ――』
プレイヤーが止まり、家の中から音が消えた。
「……お父さんのこと、認めてあげて下さい」
耳が痛くなるくらいの静寂を、背後からの静かな声が破る。その声に触発されて、謙一は自分の中の何かが急速に膨れあがって破裂するのを感じた。
「あんたが……あんたが父さんを殺したんだろっ！ 何を他人事のようなこと、言ってんだっ！ あんたに、あんたなんかが、俺たちの……俺の……」
気持ちばかりが暴走して、言葉がついていかない。濁流のような心の流ればかりが見えて、自分でも何を言いたいのかまとまっていない。それでも、この気持ちを誰かにぶつけずにはいられなかった。
結局すぐに言葉に詰まり、謙一は沈黙した。感情が言葉にならないもどかしさから奇声をあげそうになる自分を、必死に抑え込む。誰かにぶつけたいけれど、誰にぶつけるべきものなのかもわからない。感情の濁流に飲まれて、気が狂いそうだった。
そんな謙一の激情を受け止めるように、凱歌の柔らかい声が言葉を繋いだ。
「僕のことは、恨んでくれても構いません。僕があなたのお父さんを殺したことは、事実だから。――でも、僕を恨む気持ちは、お父さんを認めている気持ちから、出ているんじゃないでしょうか」
優しく包み込むような、それでいて少し憂いも含む声だった。
「そんなこと……」
言いかけて、謙一は自分の声が鼻声になっていることに気付き、はっとした。さっきは激しい感情の流れに押し潰されそうになっていて、そんなことに気を留める余裕もなかった。
「それに――」
謙一が言いかけて押し黙ってしまったのを受けて、凱歌が再び口を開く。「結局あなたは鍵を手放さなかった。それも、心のどこかで、お父さんのこと認めてる証拠じゃないでしょうか」
その指摘で、謙一は初めて気付いた。どうして鍵を捨てなかったのだろう――。捨てようと思えばいくらでも捨てることができたはずだ。自分の手に余るものならば、捨ててしまった方が安全だった。それなのに、自分はそうしなかった。
やはり、父のことを、ほんの少しでも信じようとしていたのだろうか――。
それを認めたくなくて、無理に思い出さないようにしていただけなのだろうか――。
自問してみたところで、答えは出そうにない。
「お父さんのこと、素直な気持ちで向かい合ってみて下さい。すぐに変わることは難しいけれど、少しずつ、何かが変わるかもしれない。過去のことは消せないし変えられないけれど、あなたは生きているんだし、これから変えられるかもしれない……」
後半は、まるで凱歌自身に向けていっているかのような台詞だった。過去は取り戻せないが、未来はやり直せる――心にズシンと響く。
これからは父のことを少しは認めてもいいだろうか――許容する気持ちが小さくはっきりと、心の中に芽生えていた。