4
午後7時。11月も終わりに近づいているこの時期の日の入りは早い。太陽はもうかなり前に沈み、あたりは完全に夜が支配していた。漆黒の闇が、目の前に広がる海と空の境界線を曖昧にする。曇っているのか、星は一つも見えない。
早朝は賑わう漁港も、この時間は閑散としている。海に浮かぶ漁船が数隻、明日の早朝の出港を待ちわびながらゆらゆらと揺れている。少し波が高いのか、船の軋む音が時々聞こえた。そして岸壁を軽く叩く波の音が、船の揺れに合いの手を入れる。
謙一は漁港の機材倉庫前に車を止めた。エンジン音が消えると、途端に潮騒が大きくなる。他に音はない。人の気配もない。それを十分に確認してから、謙一は慎重に車を降りた。
倉庫と港を隔てるシャッターの列のうち、一番端の一枚だけが開いていた。そこから入ってこいという意思表示のつもりなのだろう。その先は真っ暗で、外からでは中の様子を伺い知ることはできない。
倉庫に踏み込んでいきなり攻撃される事態を、咄嗟に頭に思い浮かべた。1211がそんな行動に出てくる可能性は、はたしてあるだろうか。しかし、危険が少なからずありそうだからといって、外でずっと様子見をしているわけにもいかない。
謙一は意を決してシャッターをくぐった。
倉庫に足を踏み入れてすぐは、何も見えなかった。暗闇に目が慣れるまで、ほんの少し立ち止まる。次第に倉庫の中がおぼろげながらも確認できるようになった。荷物を運ぶ運搬用の小型トレーラー。あちこちに散乱している発泡スチロールのケース。そして、床から3mほどの高さのところをクレーンのレールが縦横に走っている。それらの位置を確認しながら、謙一は真っ直ぐ奥へ進んだ。
謙一の5歩目が床を踏んだ時、奥で裸電球が一つ、光を灯した。暗闇に慣れかけていた瞳には、その弱々しい光ですら眩しい。謙一は思わず足を止めた。
裸電球を背に、男たちが数人立っていた。逆光になっているため表情まではわからないが、一様に威圧的なオーラを放っている。それが、一般人ではないことを明確に物語っていた。
謙一と1211の男たちのちょうど真ん中で、真弓が立っていた。両の手首を、体の前面で縛られている。その真弓が謙一に気づき、首だけを捻って振り返った。電球の光に照らされて、真弓の瞳が瞬間的に煌く。謙一が現れたことへの安堵からか、それとも現状が何ら変わっていないことへの恐怖からか、唇をわななかせている。必死に声を出そうと試みているが、実現できずにいるようだった。
謙一は、真弓から1211へと視線を移した。
「鍵は、ここにある」
1211の連中に見せつけるように、謙一は自分の眼前に持ってきた鍵をぶら下げた。鍵が放つ鈍い輝きが、1211の目にも届いているはずだった。
1211の中の一人から、低い声が飛んだ。
「本物か？」
「妹の命がかかってるってのに、ニセモノなんか持ってくるかよ」
焦りと恐怖心を押し殺すために、謙一はわざと悪態づいてみせる。こういう交渉に関しては、全くの素人だ。自己催眠で自分を奮い立たせないと、緊張で足が崩れそうだった。
数瞬の沈黙の後、ようやく1211がこちらを信用したらしい。さっきと同じ男が口を開く。
「……そこから動かずに、こっちへ鍵を投げるんだ。鍵を投げたら、お前たちは自由の身だ。ただし、少しでも下手な素振りを見せたら、命の保証はしない」
「……わかった」
言われた通りに動いたところで、こいつらがちゃんと命の保証なんてしてくれるのだろうか――。そんな疑問も感じないわけではなかったが、言われた通りに動く以外の術は思い浮かばなかった。
謙一は、1211から真弓へと視線を戻した。不安を目一杯表現している顔。見開かれた両目が、謙一を凝視している。頼りにされていることをひしひしと感じるが、同時に失敗できないプレッシャーが強く圧し掛かる。
真弓の不安を少しでも取り除けるように、そして自分のプレッシャーを跳ね除けるように、謙一はできる限りの優しい声を作った。
「真弓、俺が鍵を投げたら、こっちに来るんだ。いいな？」
真弓が細かく何度も肯く。それを確認してから、謙一は1211へと視線を戻した。
「いくぞ」
謙一のその声に、ざっと緊張が走る。そんな張り詰めた空気の中、やや離れたところにいる1211にも確実に見えるように、謙一は大きな動作で鍵を投げた。電球の光に照らされ、鍵で反射した鈍い光が放物線の弧を描く。その曲線を描く様が、謙一にはスローモーションのように見えた。
鍵が描く放物線が、頂点に達したときだった。
緊迫した空気を荒々しく破るように、クレーンのレールの上でカタンと音がした。その直後、ざっと空を裂く音とともに黒い影が舞い降りる。影は空中で鍵を奪い取り、そのまま真下の真弓のそばへと降り立つ。真弓も1211もあまりにとっさの出来事に何もできず、ただその一部始終を見ているだけしかできなかった。
「お前……」
謙一の呟きに合わせるかのように、黒い影――王凱歌が立ち上がる。彼の顔を視認したのか、1211の間に動揺が走った。
そのざわめきの中から、叫びにも似た声が駆け抜けた。
「お前――いまさら罪滅ぼしのつもりかっ！ 自分の手で、こいつらの父親を射殺したことへの……それが償いのつもりかっ、王凱歌っ！」