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凱歌の傷は、日を追うごとに目に見えて回復していった。彼が家に担ぎ込まれてから4日目で、早くも彼の頭から仰々しい包帯が消えた。その代わりに、ガーゼが傷口を軽く覆うようにテープで貼りつけられるようになった。こめかみ以外の傷はどれも大したものではなく、出血は見られたが擦り傷や打撲傷程度。下手に手当てをするとかえって完治に時間がかかるのではないか、そう思えるほどに軽いものだった。
真弓は完全に凱歌のことを信用しているらしく、学校に行っている時以外は彼の手当てや身の回りの世話をこまめにしていた。彼の身の上を疑うような素振りは微塵も見られない。それどころか、気がつくといつも凱歌の傍にいる。よほど気に入ったのか、楽しそうに彼に声をかける姿を頻繁に見かけた。
凱歌も真弓の世話にただ甘んじているだけではなく、動ける程度に回復した日から食事の準備を手伝っているらしい。いつものように謙一が仕事から帰ると、いつもと異なり突然食卓が豪華になった日があった。何事かと思い真弓に尋ねたところ凱歌が全部作ったという答えが返ってきて、さらに驚かされた。どうやら射撃と格闘技だけが特技というわけではないようだ。
しかし、凱歌の傷が癒えていくのを見る度に、そして真弓が凱歌になつくのを見る度に、謙一の心の中で悪い予感ばかりが大きくなっていった。凱歌を見たその日に心の中に宿ったザワザワしたもの。凱歌に対する苛立ちとは明らかに性質の違うもの。ヤツらがたったこれだけで手を引くとは思えない。いつかまた、必ず何か仕掛けてくる――そんな確信にも似た不安。
1週間後の夕方、その不安が現実のものとなった。
その日、謙一が仕事から帰ると、出迎えてくれたのは凱歌一人であった。いつも暗くなると家にいるはずの真弓の姿が、どこにも見当たらない。
「……真弓は？」
「今日はまだ、帰ってきてません」
凱歌も不安そうな表情を浮かべている。
「連絡は？」
「ありません」
ついに来たか――覚悟はしていたものの、氷の塊を飲みこんだような冷たさが胸を締めつける。
真弓の行方を示す手がかりのようなものがないかと、周りを見渡してみた。ヤツらにさらわれたのなら、必ず何か伝言があるはずだ。そう思いながら、部屋の窓や玄関のドアへと目をやる。その玄関のドアに付いている郵便受けに、二つに折り畳まれた白い紙が挟まっているのが見えた。謙一は郵便受けからそれをひったくるように引っ張り出した。破れたらどうするなんてことは、露ほどにも思い浮かばなかった。焦る気持ちばかりが先走って、紙を開くことですらもどかしい。紙をクシャクシャにしながらどうにか開くと、中に数行の文字が書かれているのが見えた。
『妹は預かった。
本日午後7時までに、例の鍵を持って港まで来い。
鍵と交換で妹は返す。
1211』
取引要請の文章としては何のひねりもない。だが、その無味乾燥な文字の羅列が不安と焦りで苛立つ自分を嘲笑っているようで、逆に癪に障る。思わず謙一の口から舌打ちがもれた。
腕時計に目を落とす。6時半。漁港までは車を使えば10分とかからない。鍵は念のためにと、勤め先である漁協事務所の自分のデスクの引出しの中に仕舞ってある。それを取りに行ってから漁港へ向かったとしても、すぐに行動を起こせば十分に間に合う時間だった。
「――！」
横から紙を覗き見た凱歌が息を飲む。おそらく署名を見たのだろう。
「1211って……どういうことですか？」
「あんたには関係ない」
香港最大の闇の組織1211――その組織に凱歌がかつて属していたことは知っている。その組織で、彼がNo.1のスナイパーとして働いていたことも耳にしたことがある。そして、1211の任務で、去年の秋、日本で2人の人間をその手で殺めたことも。
だが、いくら1211と彼に繋がりがあったとしても、真弓がさらわれたことと彼の間に直接的な繋がりは何もない。
謙一は苛立ち紛れに紙を握りつぶし、それを床に叩きつけた。家を出ていこう、ドアのノブに手をかける。
そこへ、凱歌の声が再びかかった。
「待って下さい、僕も……」
「あんたには関係ないって、言ってんだろう！」
あまりに強い口調だったのか、凱歌が体を震わせて動きを止める。凱歌が初めてこの家に来た日と同じように、苛立ちから自制が効かなくなっている。どこかがズレているようなもどかしさ、歯がゆさ。そんなものを内に抱えている自分を、謙一は自覚していた。
しかし、今の謙一にはそんなことを気にする余裕はなかった。
謙一は凱歌を振り返らず、玄関のドアを閉めた。