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厚くもない木の壁に寄りかかりながら書類に目を通していたとき、部屋の中央で動く気配を感じた。謙一は書類から顔を上げた。広くもない部屋の中央を、一揃いの布団が陣取っている。そこに横たえられ眠っていたはずの男が、今は目を開けていた。寝起き特有のぼうっとした視線を宙にさ迷わせている。しばらくそうしていたが、不意に何かを思い出したのか唐突にがばっと起き上がった。そこで初めて、すぐ横に座っていた謙一に気が付いたようだった。
「あ……」
「真弓ぃ、目ぇ覚ましたぞ」
何かを言いかけた男を無視して、謙一は妹の真弓に声をかけた。確か家のどこかにいるはずだ。案の定、部屋の扉越しに「はーい」とすぐに応答が返る。そして、まもなく真弓が部屋にやってきた。部屋の扉を開けるなり、起き上がっている男の姿を見て顔をほころばせる。
「よかったぁ〜。一応、お医者様に診てもらったんだけど、なかなか目を覚まさないから心配してたんだよ」
心底心配していたのだろう。謙一の横に座りながら、真弓がそう言った。真弓の言葉に、男は初めて手当てされていることに気付いたらしい。こめかみを通るように巻かれている頭の包帯に手をやった。
「助けてくれてありがとう」
真弓が満面の笑みでお礼を言う。しかし、それが誰に向かって言われた台詞なのか、男は瞬間的に把握できなかったようだった。刹那の間をおいて、表情に戸惑いを浮かべる。
「……助けた？」
男がぽつりともらした。その一言に、逆に真弓が困惑した。どうしたらいいのか伺うように、ちらっと謙一に視線を向ける。だが、すぐに男の方へ視線を戻した。
「覚えてないの？ あたし、港で怪しい男たちに襲われてて、それをあなたが倒してくれたの」
「――僕が？」
「すごかったんだから。あっという間にやっつけちゃって。――全然、覚えてない？」
「……確か……不意に殴られて……それから……気が付いたら、ここに」
記憶を探りながら、男が慎重に答える。話の流れから察するに、真弓を助けるために格闘したのは、無意識の行動だったらしい。
「ね、あたし真弓って言うの、あなたの名前は？」
男の方へ身を乗り出し、真弓が問いかける。その途端、男の表情が微妙に陰った。明らかに、自分の名前を隠したがっている。その仕草で、謙一は一つの確信を得た。最初、男の顔を見たときは他人の空似という可能性も考えた。しかし、格闘技に長け、それでいて自分の名前も言えないほどの後ろめたさを抱えた男なんて、そういるものではない。
「……真弓、けが人なんだ、そんなに立て続けに質問したら迷惑だろ。――何か、飯でも作ってきてくれないか。何も食わずに寝てたんだ、腹ぐらい減ってるだろ」
「あ、うん、わかった」
謙一が促がすと、真弓は素直に部屋を出て行った。男のことを疑う素振りは全く見られなかった。助けてもらったからか、完全に信用しているようだ。
足音が遠ざかるのを確認してから、謙一は男の方を見ずに口を開いた。
「俺は迫田謙一。真弓を――妹を助けてくれたことには、一応礼を言っておく、王凱歌」
男の――凱歌の視線が謙一の頬に突き刺さる。謙一は横目で凱歌を眺めた。凱歌は顔を強張らせ、驚きと恐れの混じった複雑な瞳の色を見せた。
「知らないとでも思ってたか？ まぁ、真弓は気付いてないみたいだけどな。去年の今頃、あれだけテレビや新聞を騒がせていたんだ。それに、あんたの顔は忘れたくたって忘れらんねぇ」
凱歌の表情から驚きと恐れが消え、代わりに警戒するような目つきになった。口数が少ない上に表情も乏しいが、感情がすぐ目に表れる。分かりやすい男だ――謙一は思った。
「警察にチクったりしねぇよ。妹の恩人だからな、礼の代わりに傷が癒えるまではここに置いといてやる。ただし、治ったら追い出すからな」
凱歌の顔を見ないまま、謙一は言い放った。
正直なところ、今すぐにでも追い出したかった。相手は全国規模どころか全世界規模で指名手配されているような男。しかも、得体の知れない闇の組織からも命を狙われているという噂を聞いたことがある。そんな男を匿うような真似をして妹に何かあったりしたらと考えると、家に運び込むことですら躊躇うところだ。もし単純な成り行きで拾ってきたのであれば、死なない程度に手当てだけして放り出している。しかし、妹を助けてもらった手前、そんなことはできなかった。
感謝と嫌悪感が心の中で渦巻いている。そのせいか、凱歌の顔をまともに見ることができない。
謙一の視界の片隅で、凱歌が軽く頭を下げた。
二人の間に沈黙が降りた。部屋の扉越しに、包丁がまな板を叩くリズミカルな音が聞こえる。食事の準備という日常と、殺人者が目の前にいるという非日常が混在していて、謙一は目眩に似た感覚を覚えた。見慣れたはずの部屋なのに、他人の部屋のような違和感。それは浮遊感を伴っている。気持ちが落ち着かず、少しずつ苛立ちが募っていく。
「――真弓さん、でしたよね」
凱歌の静かな声が、規則的な音の列を破った。「なぜ、襲われていたんですか？」
「あんたにゃ関係ねぇよ」
抑制が効かず、苛立ちがストレートに言葉に出てしまったようだ。謙一の強い拒絶の言葉に何も言えなくなったのか、凱歌がうつむく。その仕草を見て、謙一は少し罪悪感を覚えた。それを繕うように、言葉を繋ぐ。
「それより、あんた、なんで高飛びしなかった。こんな国にいたら、いずれ捕まっちまうに決まってる。闇の組織にいたんだ、抜け穴ぐらい知ってんじゃねぇのか？」
「……探してる人がいるんです」
「あ？」
凱歌が左右に体を捻り、自分の周囲を見渡す。何かを探しているようだった。すぐに布団の傍らに折りたたまれている黒いジャケットを見つけ、それを無造作に掴み取った。ジャケットのポケットを探り、白い何かを取り出す。ジャケットを掴む動作とは対称的に、その白いものを随分丁寧に扱っている。よほど大事な物らしい。
凱歌はその白い何かを少し眺めてから、謙一へと差し出した。受け取りながら、謙一はそれを上から下までざっと目を通す。少し黄ばんだ古い写真。写真表面に張られた薄いビニールが、ところどころ剥がれかけている。そして写真には、和服姿の古風な女性が写っていた。温和な表情を浮べたその姿は、在りし日の日本の母そのものだ。全てのものを包み込んでしまうような、柔らかな雰囲気を漂わせている。
「誰だ？」
「母です」
「この人を探してる、と？」
期待を微かに内包した視線を謙一に向けながら、凱歌が肯く。
「……知らねぇな」
そう答えながら、謙一は写真を凱歌に返した。凱歌が「やっぱり」というような、それでいて少し残念そうな表情を浮かべる。突き返された写真を受け取り、無言でジャケットのポケットへと慎重に戻した。その手つきから、母親に対する絶大な愛情が感じられる。
「……そんなに会いたいもんなのか、親ってのは」
ジャケットを折り畳む凱歌を眺めながら、謙一はぼそっと呟いた。その呟きが聞こえたのか、凱歌が手を止めて謙一を見る。
「ご両親は？」
「どっちも死んでる。おふくろは5年前に病気でな。――親父は、去年死んだらしい」
「”らしい”？」
「人づてに聞いた、親父が死んだって話をな。まぁ、死のうが何しようが、別にどうでも良かったし……俺たちを捨てたようなヤツなんて」
父親のことは、思い出すのも避けたいくらいだった。思い出したところで憎悪しか沸いてこない。懐かしさや憧れなんて、これっぽっちも感じない。
「会いたいと、思ったことは……」
「会いたい？ そんなもん、向こうから頼まれたって願い下げだ。こっちは生活するのに精一杯だったってのに、あっちはのうのうと、普通に生活してやがったんだ。おふくろが死んだときだって、顔を出すどころか電話の一つもしてこなかった。そんな薄情なヤツに会いたいなんて、一度も思ったことねぇよ」
父親のことを罵っているうちに、自分の中の苛立ちが急激に膨れ上がっていくのを、謙一は感じた。心の片隅で冷静になろうとする自分もいたが、歯止めがかからない。
「第一あんたも、よく母親に会おうと思えるな。今の自分がどういう立場なのか、わかってんのか？ 迷惑だとか、思わないのか？ 母親もさ、今のあんた見て……」
「お兄ちゃん！」
いつの間にか、真弓が部屋の扉のところに立っていた。そうしてようやく、自分の暴走に気付いた。感情の昂ぶりに流されて、つい言い過ぎてしまった。凱歌にあたるのは、いくらなんでもお門違いというものだ。ささくれ立った心が、急速に冷静になっていく。
申し訳なさから、ふと凱歌に目をやった。悲しそうな、あるいは泣きそうな顔をしているかと思ったら、意外にも無表情だった。罵られても仕方ない、そんな諦めすらも感じる。過去の自分の行いを、全て理解している。それでもなお、母親に会いたいのだ。その真っ直ぐな純粋さが、逆に自分の惨めさを際立たせる。
居たたまれなくなり、謙一は部屋を出て行こうとした。
「どこ行くの？」
真弓の声が背中にかかる。今はその声すらも、わずらわしかった。
「散歩してくる」
殺人者が殺人者らしい雰囲気を醸し出していれば、こんなに苛立つことはなかっただろう。だが、凱歌はどこか違う。人を殺しているという人道に反した過去とは裏腹に、妙に純粋なのだ。そのせいか、凱歌の顔を見てるだけで自分の汚い部分ばかりが目に付く。彼と同じ空気を共有するには、少し冷却時間が欲しかった。